演出ノート「葵上」


現代における狂気とは何か?

いま、日常的に広がる狂気の景色は一体何なのだろう。30年前の日本人が、

現在の電車のなかの状況を見たとしたら、これは狂人の集団だと思うだろう。

多くの人々が携帯電話もしくはゲーム機をいじっている。眼前にいるリアルな

人間とはコミュニケーションせず、遠く離れた存在と交信したり、バーチャル

な世界に浸っている。朝の電車ではおもむろにメイク道具を引っぱりだし、

化粧をしはじめる女性たちがいる。この人たちは、周囲に人間がいない。

もしくは意図的に消去している。眼前の人間が消えるのは、これは狂気以外

の何ものでもない。リアルを嫌い、バーチャルに生きる傾向は現代社会の

なかで加速している。


「葵上」の六条康子の狂気は、リアルを超えて、生霊というバーチャルな存在

として光の眼前に現れる。リアルな六条とバーチャルな六条、この分裂は現代

社会に生きる人間の分裂と通底する。いずれも狂気の結果としての分裂である。

三島由紀夫の諸作品には、この種の狂気が多く見受けられる。しかしその狂気は、

言葉は矛盾するかもしれないが、きわめて理性的なのである。明晰な思考のなか、

どこまでも意識的に狂っていく。人格崩壊もトランスもない、冷たく覚めた狂気。

今日、バーチャルの世界で疫病のように広がっている幽霊の正体は、まさにこの

青白く燃える冷静な狂気に他ならない。そして、死をまるで飴玉のように口の中

でしゃぶりながら、ほくそ笑んでいる姿こそが三島の狂気の本質ではないか。

見ようによっては児戯に等しい登場人物たちの行動は、三島作品を成立させる上

で不可欠な要素である。狂気の実体を戯画的にかつオカルト的に展開することで、

三島由紀夫という妖怪の姿を白日のもとに曝したい。


■スタッフ


演  出    長野 和文

美  術    岸本 真寿美

照  明    大野 道乃

音  響    高沼 薫

美術制作協力 栂野恵秀・愛場恵華・島田彩純・吉村結花


■キャスト


六条康子  鬼頭 理沙

若林光   深沢 幸弘

葵      稲川 実加

看護婦   飯田 武


PROFILE