いま、ドストエフスキーの「悪霊」を読み返している。1昨年あたりから何故か、
ドストエフスキーが気になりはじめて、「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「白痴」
と順に読み返しているうちに、気づくと文庫はほとんど読んでしまった。
だが、このところ光文社新訳あたりから俄然ブームになりはじめたので、
もうそろそろ「ドストエフスキーって誰なんですか?」と知らんフリをしよう
と思っている。しかし「悪霊」にかんしては、いつか舞台化したいと考えている。
そのとき主役のスタヴローギンは、ぜひBUCK-TICKの櫻井敦司がいいなどと
目論んでいる。
「悪霊」のなかで、スタヴローギンとシャートフの会話に
「理性によって人は善悪を規定しえるか」という趣旨の命題が出てくる。
これは"理性"を"神"の対抗軸においたうえでの疑問であるが、現代の日本において
この質問がもつ意味は大きい。いまの世の中、"理性"をたもつことは至難のわざである。
皆どこかしら狂っている。
現代における神はなにか? それはきっと現代人を操っている様々な情報ではないだろうか。
増幅しつづけるテレビのチャンネル、インターネットからあふれる情報、それらによって
現代人は確実に操られている。自分の頭で考えられなくなっている。
自分自身が誰かのStandby(代役)になっている。
今日、みのもんたが不二家をたたけば、不二家なんぞツブレテしまえと思い、
明日、みのもんたが不二家にはぜひ再建してほしいといえば、ミルキーを3箱買って
しまう日本人。コメンテーターが何人も居並んで、事件について意見をのべ、
そのうちの誰かの意見を自分の意見のように言いふらす日本人。たった数日まえに
サイトで知り合った仲間と、自殺したり、殺人したりする日本人。
だが、この怒涛のごとき情報ももとをただせば、人間の脳が生み出した妄想にすぎないのだ。
操りの糸の先を握っているのは、もしかしたら自分自身かもしれない。
そして、操りの糸を断ち切ることができるのも自分自身なのだ。
「たかが言葉で作った世界を、言葉でこわすことがなぜできないのか、
引き金をひけ、言葉は武器だ!
どんな鳥だって想像力より高く飛ぶことはできないだろう。(邪宗門より)
■スタッフ
演出・美術・・・・・・・長野 和文
照 明・・・・・・・・北澤 真人(あかり組)
音 響・・・・・・・・前田 規寛
衣 裳・・・・・・・・井上 美千代
舞台監督・・・・・・・・池の下工房
企画制作・・・・・・・・池の下
■キャスト
蘭(小児麻痺の女の子)・・・・・・・・・・・・・・・青木 五百厘
祖父(やぶにらみで船の設計士)・・・・・・・・・・・梅澤 良太
祖母(猫が大好き)・・・・・・・・・・・・・・・・・鬼頭 理沙
パパ(吃り、ベルリオーズの熱狂的ファン)・・・・・・いづみ スミオ
マユ(淫蕩な蘭の姉)・・・・・・・・・・・・・・・・井上 美千代
鷹司(蘭の兄、虚無的な詩人)・・・・・・・・・・・・谷部 光明
人形使いもしくは蝶1(実物、黒子の衣装のまま)・・・渡辺 健太郎
人形使いもしくは蝶2(実物、黒子の衣装のまま)・・・深井 邦彦
◆協 力
高津映画装飾株式会社
◆助 成
国際交流基金