不在というのは、そこにはいないということだ。
存在というのは、そこにはいるということだ。
この物語は、不在の話だ。そこにはいない話だ。
この物語には、いない人がいる。
いない人がいるというのは、ちょっと矛盾した
言葉だが、いないことにより、いることよりも
ますます存在感をあらわすということもある。
先日、父が死んだが、それまであまり会うこと
もなかった父が夢に出てきた。目がさめてから
その日、一日中ずっと父のことを考えていた。
ちなみに父は昭和十年生まれ。寺山修司と同じ
年に生まれた。そんなことも父が死んで初めて
意識した。
不在が存在を凌駕するということもある。
虚構が現実を凌駕するということもある。
たとえば絵のなかに描かれた人物は、絵の
なかには存在しているが、現実にはその人
はすでにそこにはいない。
不在だ。死んだ人も不在のままに絵のなかに
存在している。絵は不在に満たされている。
かくれんぼは不在を生贄にした遊びだ。
だから、その罰として鬼はいつしか時代に
取り残され、目をひらくとそこには自分の
知らない世界が広がっている。かくれんぼ
について考えるとき、わたしはいつもこの
歌を思い出す。
「かくれんぼ鬼のままにて老いたれば
誰をさがしにくる村祭」
(寺山修司 歌集「田園に死す」より)
長野和文
■スタッフ
演出/美術・・・・・長野 和文
照 明・・・・・・安達 直美
音 響・・・・・・髙沼 薫
舞台監督・・・・・・田中 新一
制作協力・・・・・・潮田 塁
宣伝美術(画)・・・丸尾 末広
記録写真・・・・・・鏡田 伸幸
記録映像・・・・・・井野口 功一
企画制作・・・・・・池の下
■キャスト
猛夫・・・・・・・・・・・SUMIO
宿屋の主人・・・・・・・・岩切 チャボ
女主人・・・・・・・・・・井口 香
女中・・・・・・・・・・・青木 五百厘
隣室の女・・・・・・・・・?
■協力
高津装飾美術株式会社 出崎 健太
ロングランプランニング株式会社
■助成