今回の『犬神』を通して見せたいものは、日本の"闇と光"である。
"鬼と神"といった言い方もできるかもしれない。これらは、常に相対的に存在する。
"光"のある所に"闇"は生まれ、"神"あれば"鬼"もある。どちらか一つだけでは存在し得ない。
また、『犬神』は、日本の"闇"の部分の話でもある。歴史は"光"を奉るために、常に"闇"を必要とした。
また、"光"が零落の後に"闇"になることもあった。"闇"を必要とした"光"の支配は、
様々な形態をとりながら現在でも、この日本国に脈々と息づいている。「ムラ」は消えたが、
「ムラ」の"闇"は、まるで亡霊のように情報化社会の中にも蘇える。
警笛を鳴らすものは今やもういない。これが新たな"闇"の支配に繋がることは誰も知らない。
今回の公演では、語りの役者一人が劇の中心を構成する。
それ以外はすべて代替可能なドゥーブル(Double)として存在する。
彼らは、この虚構に取り込まれた生贄であり、苟且の世界で現実の血を流す。
それ故に彼らは手垢に染まった演じ手であるより、あらゆる意味で「まっさら」で
あることが望ましい。「まっさら」である彼らを作品創造の場で変容させていく。
すべてが未知であり、すべてが発見であるからこそ、はじめて立ち現れる「危機に向かう身体」。
さらには、日本人の身体の素形(アルケー:arche)を探る実験を、この作品を通じて行いたい。
古来日本人の身体にあったであろう"かたち"は、この数十年の間に急速に消滅していった。
しかし、素形は様々な事物に窺い知れる。例えば風習に。例えば神仏に。例えば祭礼に。
それら素形を「まっさら」な身体に鋳態し、『犬神』の"かたち"を求める。
『犬神』の劇は、神の交代であり、失われた日本の幻影を屹立させることにある。
歴史的にわれわれの目の前から消えたものの中にこそ、現代に生きる人たちの心の奥底に届く
劇があるのではないか。それを発見することが、この劇の実験であり、そのことが
現代演劇の可能性を探ることになるのだ。
■スタッフ
演出・美術:長野和文
照明:北澤真人
音響:遠藤憲
■キャスト
井上美千代
いづみスミオ
渡辺健太郎
鬼頭理沙
青木五百厘
梅澤良太
深井邦彦
谷部光明